週刊本吉研究室⑲10月25日号『「価値観」から障害理解を考える』
はじめに
こんにちは!10月最後のブログです。
研究室のメンバーが週替わりで記事を担当している、『週刊本吉研究室』。
前回で1人1回の担当が終わりましたので、今回から2周目に突入します!
書いてくださっているみなさん、そしてなにより読んでくださっているみなさん、いつも本当にありがとうございます。
これからも楽しく、そしてちょっとためになるような記事をお届けしていきますので、ぜひお気軽に読みにきてください!
今回は私が関心を持って調べている「価値観」と「障害理解」について考えたことを書こうと思います。分かりにくいところもあるかと思いますが、お付き合いいただけると幸いです。
価値観について
私たちは何か行動をする時に、自分の中にある価値判断の基準を用いて行動を決めています。その価値判断の基準となるものが「価値観」だと考えます。
よく「この人とは価値観が合う」という言葉を耳にします。他者と時間を共にする時、その人の行動1つ1つがその人の価値観によるもので、それを見て例えば自分にとって好まない行動であったとするならば、「あの人とはなんだか価値観が合わないかもしれないなあ。」と思うこともあるでしょう。では、その人と自分の価値観は、そもそもどのように生まれたものなのでしょうか。そして、なぜ人によって違いがあるのでしょうか。
なにか例をもとにして考えてみましょう。ある人が『幅の狭い歩道のできるだけ車道から離れたところを歩く』という行動をしていたとします。この行動をした価値判断の基準がどのように形成されたのか考えてみると、まずは「車道から離れて歩いた方が事故に繋がる危険性が低い」という知識があったのかもしれません。また、「車道側を歩いてはだめ。」と幼い頃にお母さんから言われていたとも考えられます。さらに、「車道側を歩いていた時に車がすぐ近くを通った」という経験と、その時に「怖かった。」という感情があったということも考えられるでしょう。そしてそこから、「車道側からできるだけ離れて歩くようにしよう。」という考え方が生まれた、とします。これらの要因は全て憶測にすぎませんが、確かに言えるのは、要因は決して1つではないはずだということです。先に述べたような知識や人(もの)との出会い、経験とそれに伴う感情や考え方が合わさって形成された、行動の価値判断の基準こそが「価値観」だと考えます。
そう考えると、人によって違いがあることについても説明し得るのではないでしょうか。同じ親や教員に教わったとしても、同じ環境で時間を過ごしたとしても、1人として全く同じ価値観を持った人はいません。それは、その時に生まれた感情の違いによるものかもしれませんし、他の場所で経験した、あるいは出会った人・もの・知識の違いによるものかもしれません。とにかく、同じものを知ってさえいれば、同じことを経験してさえいれば、全く同じ価値観を持っているだろうとは考えにくいということです。
「価値観」から障害理解を考える
障害理解教育の在り方について考える時に、まずは障害に関する価値観がどのように形成されるかを考える必要があると私は思います。障害に対する差別・偏見・無理解が起きるとするならば、それはその人(あるいはその人たち)に差別などのもととなる価値観が存在していることになります。そしてその価値観は、生まれながらにして持っているものでは決してなく、これまで生きてきた中で出会った人・もの・知識、そして経験と感情から形成されたものだということになります。このことから、何と出会うか、何を経験してどのような感情や考え方が人生に起こったことがあるかで障害に関する価値観が決まるのなら、そこに対するアプローチを障害理解教育で行うことができると私は考えています。
いろいろな人と障害理解教育についての話をしていて、よく言われることがあります。それは、「やはり障害を理解するのには、障害のある人の話を聞いたり、共に学んだりするようなことを実際に経験することが一番大事だ。」という言葉です。同じ時間を共にする経験が大事だということはとてもよく分かります。しかし、私はそこでいつも2つの疑問を持つのです。
まず1つは、経験の機会が十分にある人もいれば、その機会がほとんど無い人もいるかもしれないということです。現在、障害のある児童生徒と障害のない児童生徒が学校教育の一環として活動をともにする「交流及び共同学習」が行われています。この「交流及び共同学習」は、学校教育で定められた経験の場であり、障害に関する理解を深めるために非常に重要な学習だと考えられます。しかし、よく調べてみるとその具体的なカリキュラムは学習指導要領などでは定められていないといいます。そうなると、「交流及び共同学習」でどのような活動を設定するか、どのような環境で行うか、どのような頻度で行うかなどは、各学校に委ねられていると考えられます。障害に関する価値観の形成に大きく影響する経験が学校ごとに異なっているとしたら、どの学校に通う児童生徒かによって得られる経験の機会に差があるかもしれないと思いました。そしてさらに言えば、「経験に差があるから、障害に関する理解にも差があるのは仕方がない」となってしまうのは果たして本当にこのままでいいのかな、とも考えました。
そしてもう1つは、ただ経験しただけでは何を考えたり、どのような感情を持ったりするかはその人次第になってしまわないかということです。もちろん、考えることや感じることは人それぞれであるべきで、それを他の誰かが規定することはできません。しかし、障害に関する価値観を形成するために、子ども達に考えてほしいことや感じてほしいことは教育を行ううえでしっかりと明確にしておくことが重要だと考えます。それをもとに、活動や学習を設定することで、1人1人の障害に関する価値観がより深まると思うからです。
私は、このようにして「価値観」と「障害理解」について考えています。価値観というのは、目に見えたり、簡単に言葉で表したりすることができるものではありません。それゆえに、どのような価値観を形成するかを考えることはとても難しいと感じています。しかし、先に述べたようにどのようなことを経験するか、どのようなことを考えたり感じたりするとよいかを検討することはできると考えています。そして、これだ!という正解はきっと1つではないからこそ、考え続けなければならないことだと思います。
さいごに
「価値観が合う、合わない」と感じるのは誰にでもあると思いますが、言い方として「価値観が似ている、似ていない」とする方がしっくりくるな、と私は感じています。全ての価値観がぴったり同じ人間同士なんて存在しないと考えているからです。そしてさらに、自分が持っている価値観が正解ではありませんし、誰が持っている価値観も正解ではないとも思います。
しかし時に、自分の持つ価値観が、その価値観からした行動や発言が、誰かを傷つけてしまったり、嫌な気持ちにさせてしまったりすることもあるはずです。反対も同じです。誰かの価値観に傷ついたり、嫌な気持ちになったりすることがあります。そんな時に、価値観に正しさを見出してしまうと思います。
これは私の考えですが、価値観に正解は無いけれども、みんなで生きていくための価値観はあると思います。それは、誰かのために自分の価値観を変えるということではなく、自分を含めたみんなと生きていく時に必要な価値観もあることです。それぞれの価値観を大切にしつつも、みんなで生きていくための価値観も形成できるような教育ができたらいいなと考えています。
長くなりましたが、最後まで読んでくださってありがとうございました!
これからも、いろいろな知識を集めて、いろいろな人と出会って、たくさんのことを考えたり感じたりしながら、勉強していきたいと思います!