週刊本吉研究室㉗1月19日号『家族だから知ってる?』

みなさんは中学生の時に「学校から家までの距離が〇km未満は徒歩通学、〇km以上は自転車通学」という規定がありましたか?

私の少ない経験ですが、これまで勤務してきた中学校のほとんどが「2km」で徒歩通学か自転車通学かが分かれていました。(部活動をしている人は何kmでも自転車通学可という規定もありました。)

ここで「なんで2km??」「誰が決めたの??」と思われる方おられませんか。


私は前期にレポート作成のために資料を調べる中で「たぶんこれがルーツになっているのではないか」というものを見つけました。

『創立百周年記念誌 小野部田小学校』(1976)の中に

昭和15年(1940年)の出来事として「2キロ以内の小学生はすべて徒歩通学とする(県)」という記述を見つけました。

この資料に書かれている出来事等を総合的に見ていくと、世の中が戦争に向かっていく中で、子どもを兵士にしていく身体づくりの一環としてこの規定ができたのではないかと考えました。(私が興味を持った出来事の一部を抜粋したものは文章最下部の表です。)


私がこの資料を手に取ったきっかけは、他界した祖父のことについて知りたいと思ったからです。聴覚障害教育の講義を大学で受けて、祖父が補聴器を着けていたことを思い出しました。私は特別支援学級の担任になって8年になります。でも、身近にいた自分の祖父の補聴器についてこれまで関心をほとんど持ってこなかったのでした。また、耳のことがあって、祖父は戦地に行かなかったということを家族から聞いた記憶がおぼろげながらありました。それらのことについて調べる中で、前述の資料を見つけました。

祖父の妹からの聞き取り、父からの聞き取り、戦時中における障害のある人たちの証言(「NHK戦争アーカイブス」「ハートネットTV」 

障害者と健康https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/special/shougai/ 

戦争 https://www2.nhk.or.jp/archives/sensou/

などを参考に私は

「障害のある人たちの中にはひどい扱いを受けた人、つらい思いをした人もいたが、祖父は親、祖母、きょうだい、周囲の人からもよくされて過ごしていたのではないか。

と、現時点ではまとめました。

また、戦争については調べる中で以下のような感想を持ちました。

  • 障害のある人たちの中には戦争という非常時つらい体験をした人がいた。
  • 非常時には色々な不満、不安、怒り等の感情を社会的に立場の弱かった人たちに向けることもあったのではないか。
  • 障害状態は社会と個人の間にあるといモデルで考えると、社会がどのような情勢であるか、非常時の場合はどうかなどの視点は重要だと思った。
  • 戦時中に障害のある人の中にも、国のために貢献したいという気持ちがあったということに気づいた。
  • 小学校でも戦争に関わる内容が扱われていくようになり、国民全体で戦争を肯定し支えていくような流れがあったのだろう。

戦時中における障害のある人たちのことは、まだこれからも調べていきたい分野です。


祖父の生い立ちの一部を知ることはできましたが、実際に祖父がどのような出来事で何を感じたかまではわかりません。

戦争中に祖父が何か言われたことがあるのか、どう思っていたのか、県外のどこの工場で軍事に関わっていて、どんな事をしていたのかなどを調べることは難しくなってしまいました。

私は講義を受けて、やっと身近な人について知りたいという気持ちになりました。それまで目の前に祖父がいても「補聴器をつけている」ということを当たり前に思っていて、どのような背景、経緯、出来事などがあったのか知ろうともしませんでした。

みなさん、家族と話してみませんか。

(レポートの内容は省略しています。)

和暦(年)西暦(年)(学校に関する)出来事
昭和101935思想視学任命、県国民精神文化講習所設置、女教員制服着用訓令
111936青年学校に教練指導員設置、天草に1年修業教員養成所設置 中学生六師団周期演習に学生義勇隊として参加、受験準備教育に処罰内規
121937軍人遺家族の慰問等銃後の備えを指示
131938日奈久に陸軍転地療養所開設、満州開拓青少年義勇軍先遣隊募集180人に600余人の志願。312人出発。国家総動員法。燃料国策ラミー小麦兎皮等増産、教練担任教師の講習会、支那語学校建設決定、中国軍反戦ビラまき、燈火管制規則による屋外灯の光管制。木炭自動車のための木炭製造講習、夏季半日制廃止、金使用禁止、モンペ標準型決定、満州への分村計画折衝、陥落祝賀会、農業報国連盟、国民精神作興体育大会、集団的体操運動の奨励厳重通達、青年学校義務制
141939市町村に忠霊塔建設許可、警防団令、米穀配給統制法、官祭招魂社を県護国神社と改称、金買い上げ運動始まる、鉄製品回収始まる、正常歩運動への注目(大江小)、ネオン、中元、歳暮、パーマ、学生の長髪廃止(国民精神総動員委員会)パーマ改名(明朗電髪、興亜巻、さざなみ等)、体力章検定、マッチの買い占め・売り惜しみ・闇価格禁止、白米禁止、家庭防護団設置通達、支那語学校校舎落成
151940マッチ製造配給制、天草の干害救済、生活綴方教員300人検挙、国民体力法、(県)米穀増産目標二百万石、米穀強制出荷命令、陸軍志願兵令公布、裸麦精麦公定価格値下げ、自動車使用禁止、県に総動員課、一人月半斤(砂糖)配給制、国民生活新体制要綱、木炭の県外禁止、部落会長内隣保班市町村常会設置通達、各戸に防空壕呼びかけ、厚生車熊本デビュー、菜種増反34町から4500町へ(県)、高小生徒に対し拓務訓練開始、義務教育費国庫負担法公布、小学国史「神勅」、小学校武道指導要目、生徒の心身鍛錬にあて集団勤労作業等を行うよう通達、野外演習集団勤労作業以外の学校単位の旅行自制指示、中学校男子制服が国防色に統一、(県)生徒の昼食弁当一斉調査、中等教科書検定制の廃止、2キロ以内の小学生はすべて徒歩通学とする(県)
161941「戦陣訓」頌布、生鮮魚介77種の公定価格設定(県)、全商店(県)午後9時閉店、報告豆債券タバコ屋でも売り出す、生活必需物資統制令交付、6大都市米国配給通帳制、初の肉なし日、水田主作物を前年の実績以上とし、稲以外のものを規制、米を転居等で搬出する場合には一人一日2合3勺とし15日分以内に限る、隣組一斉常会ラジオで開催、興亜奉功日、米国対日石油輸出を停止、東条内閣成立、靴の配給統制、言論出版集会結社等臨時取締法公布、モンペ、ゲートル防空頭巾急増、県制定の学童集団体操発表講習会、青少年学徒食糧増産運動実施要項通達、国民学校令、黒原原航空乗員養成所開所、「国民の道」配布、各中学校あて軍隊の校舎使用の便宜供与方依頼(県)、学校報国隊編成の訓令(県)、農繁期の授業を禁止、緊急食糧増産施設に関する労力対策を通達、大学専門学校の修行年数を6か月短縮
171942大詔奉戴日、大東亜戦争、大日本婦人会、戦勝祝賀酒特配1戸あたり1合8勺、県翼賛壮年団結成、県衣料切符点数制実施、食料管理法公布、白金、金、銀の即金買い上げ、享楽面の制限強化、英米系歌曲の徹底的排撃音楽英芸の取り締まり強化、熊本日日新聞に統合、配電不足、満州開拓団、強制供出命令(梵鐘など)、都市疎開本部設置(県)、新聞頁減、割増金付切手債券(弾丸切手)郵便局で販売、満蒙開拓青少年義勇軍に参加、女学校英語が随意科目となり集時間以内、九州産交双立、東肥航空創立、食肉の切符制実施、門扉・柵・格子・火鉢等70品木回収(市)、大豆小豆購申込、秋期勤労奉仕作業班請入希望調査、生柿販売の買い入れ者指定、木炭の計画配給、学務部を廃止・総務部へ(県)、藁工品配給制、関門トンネル開通、黄麻・ケナフ出荷、麻袋回収督促、イナゴ捕を督励(県)、白砂糖等配給通知、乾燥幼バナナ配給、月月火水木金金など流行、学徒動員令(報国協力令)、教員の防空講習会開始、中学4年高校2年制、学生頌布70年御沙汰下賜・式典
181943金属回収本部設置、肥料・白砂糖・種油配給、衣料切符通知、戦時食糧必勝態勢確立運動協議会、管理米供出催促、「うちてし止まむ」ポスター5万枚配布、朝鮮に徴兵令、刈敷大豆配布通知、大日本言論報国会、家兎供出依頼、犬猫供出採取指示(県)、鉄製ポストをコンクリート製に取り換え、「細雪」連載禁止、海軍特別志願兵、寺院、協会の境内を食糧増産に開放、ヒマ(トウゴマ)増産油脂工場へ、県下各工場で朝礼等職場の(軍隊式)規律確立運動展開、餅・麺の県外持ち出し禁止、市電男子車掌禁止、徴兵年齢1年引き下げ、殆どモンペ一色化、学生の勤労奉仕法制化、県教学鍛錬所設立、全学生の坊主(決戦頭)指令(医大)、肥料増産学徒動員に関する通達、学校防空指針作成、戦時国民思想に関する基本方策要綱決定、教育に関する戦時非常措置方策要綱決定、学徒兵入隊出陣
191944中央公論編集者検挙、木造船建築本部発足、果樹陸稲を甘藷増産のため2万町転換決定(県)、不急作の作付転換発表(県)、わら・サトウキビ粉末でパン・うどん製造起業家、日曜返上戦時非常態勢に入る(県)、熊本券番解散、高級料理店カフェなど休業、全国の夕刊廃刊、防空壕は各家庭にと呼びかけ、加藤清正銅像供出、下駄委一戸一足配給、小磯内閣、木材薪炭生産令、砂糖の家庭配給を停止、一億国民総武装、決戦完勝母親学校、米の2分搗き厳守(県)、列車東京行きは軍・公務以外は全面停止、大日本戦時宗教報国会結成、麦作割当15万石10266町歩(県)、赤牛26000頭増畜割当(県)、たばこの隣組配給、地方松根油緊急増産推進本部、本土空襲、年末年始のたばこ1人宛て30~50本、緊急学徒勤労動員方策要綱決定、防空法による疎開命令発足、国民学校に勤労強化の通達、軍事教育全面化、就学12歳まで8年制停止、県下各女学生佐世保工場へ挺身隊、青年師範学校規定制定、高女の修業年限4年となる、県学校生と児童勤労動員実施要項制定、学校身体検査規定制定、国民初等科児童集団疎開決定、学徒勤労令、沖縄学童の熊本疎開
201945筋骨薄弱者虚弱者を八健民修練所で鍛錬(県)、銀の再供出運動、大本営本土決戦を決定、各学校天井版をはずす、旅行制限、自動車の尾側灯をやめ前照灯も1個とする、3月決戦兵器(屑鉄利用の槍の穂先)を東肥航空で製造、アルミ弁当箱の供出、東京大空襲、はがき値上げ、鈴木内閣、小国町に落下傘降下、ドイツ降伏、市町村に国民義勇隊結成、グラマン260機県下空襲、沖縄島戦終了、義勇兵役法公布、地下県庁建設工事開始、ポツダム宣言発表、水稲早期密植奨励(県)、熊本大空襲、 第30戦闘集団指令部花岡山に進出、海軍のロケット機「橘花」成功 (時速488 キ口)、 国民義勇戦闘隊 (15-60才) 届出締切、広島原爆、ソ連対日宜戦、長崎原爆、中ソ友好条約、終戦詔勅 鈴木内閣総辞職 ポツダム宣言受諾で知事諭告、東久邇内閣 10/5総辞職、満州国解消、灯火管制解除、県戦後対策委員会設、陸軍幼年学校閉校 (熊本)、ミズリーの降伏調印、マッカーサー声明 (日本管理方針)、戦犯逮捕指令 (GHQ)、戦争終息奉告大祭 (4,222 神社) 男子職員のゲートル廃止、女子のモンペはそのまま、天皇マッカーサー訪問 (赤坂米大使館) 29日朝刊に米軍撮影の写真掲載、占領軍将校2人健軍に着陸、治安維持法以諸法令廃止全国警察部長、特高全員の解職政治犯の即時釈放の覚書を発す (マ→政府)、幣原内閣、憲法改正示唆 男女同権、 経済の民主化など5大改革指令、GHQ軍国主義、 超国家主義的教育禁止、県桑残葉協会開催 (桑葉の米代替粉末化目的)、戦後第1回供米90万石割当 (県食糧供出 委員会)、旧軍弾薬を三角港で海中投棄作業開始警察予備隊 (150人) 解散 (県) この年県内密造酒4200石で業者製造 3500 石を上廻る又メチールアルコール中毒死多し、ヤミ市、パンパンガール、少年靴みがき盛り場に登場す3.18 決戦教育措置要綱決定4月英語の授業停止4.19 初等科以外原則として1年間授業停止の通達、4.21 各校に地域分散教育要項5.22 戦時教育令公布6.11 国民学校、中学校に学徒隊を編成6.22-9.17 京都 216師団 (陸軍比叡2026部隊) の兵舎となる8.16 学徒勤労動員解除8.28 学校授業再開通達 (文)9.15 新日本建設の教育方針発表 (文)9.26 疎開児童の復帰通達10.22 GHQ 日本の教育制度に対する政策発表11.11 分散教育中止決定 (熊本市校長会)12.11 国定教科書の改善措置を厳重指示 (占領軍)12.28 御真影奉遷 (地方事務所へ)この月修身、地理、歴史の授業停止

参考文献

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